松岡敏広と汐崎裕司は小学校からの腐れ縁であった。
1年生の時に地元、溝の口の少年サッカー・チームで知り合い家も近所だった為に早く打ち解けて、以来ずっと行動を共にしていた。
中学になると裕司は当然の様にサッカー部に入るつもりでいたが運動部特有の上下関係を嫌った敏広に「裕司、バンドやろうぜ!」と言われ半ば強引に帰宅部に引きずり込まれてしまった。
敏広の自宅には父と歳の離れた兄が昔、使っていた古いエレキ・ギターが2本(グレコとバーニー)あり、そのうちの一本を貸して貰う事になり、これが二人の音楽活動の始まりであった。
だが2人のバンド結成は難航した。
先ず敏広の当初の計画では自分がギター・ヴォーカルで裕司がリード・ギターとゆう構想だったのだが器用な敏広は日に日にギターが上達するも反対に裕司は全くと言っていいほど上達しなかったのだ。
ならばベースかドラムをやらせてみようと思ったが、そのどちらも敏広の家には無く周りにも心当りが無いので試す事も出来ない。
音楽スタジオに行けば何とかなるが中学生の小遣いではリース料を払うのは難しい。
挫折感を感じて辞めようと思っていた裕司に敏広は「試しに歌ってみろ」とヴォーカルをやらせてみた。
するとこれが大当たり。
実は裕司は歌には自信が有ったのだが敏広がヴォーカルをやりたがってる手前、遠慮して黙っていたのだ。
だが裕司の実力に感心した敏広はヴォーカルを裕司に譲り自分はギターに専念する事にした。
続いて他のパートのメンバー探しだが、これが大問題であった。
先ず中学生のバンド人口は非常に少なく居ても皆がギターをやりたがる為、人材が居ないのだ。
高校生と組む事も考えたが中学生では全く相手にして貰えず敏広達はバンド結成を断念。
ヴォーカルとギターのユニットとゆう事にして活動し始めた。
時はアンプラグド・ブーム。
アメリカのチャートでもアコースティック系の曲がヒットしてた事もありエリック・クラプトンの♪Tears in heaven、エクストリームの♪More Than Words、Mr.BIGの♪To be with you等をレパートリーに文化祭で披露するとこれが大ウケし、校内でも注目を集める生徒となり女子からもモテる様になった。
そして二人は隣町にある偏差値、並レベルの鷺沼平高校、通称サギ高へ進学。
そこで矢野賢治と知り合う。
賢治は、そのサギ高がある町出身で父は普通のサラリーマンだが母が自宅でピアノ教室を開いていた。
賢治の母は特に息子にピアノを強要する様な事はせず賢治が好奇心で自分からピアノを弾く、とゆうより鳴らして遊んでる時に横でたまに教えてあげる程度であった。
だがこれが結果的に賢治の音楽的感覚を磨く事になる。
因みに賢治の嫁の加奈子は幼稚園の頃から母の生徒であった。
そして賢治は6歳の時にテレビで観たマイケル・シェンカーとエドワード・ヴァン・ヘイレンに憧れギターを始め以来、様々なギタリストやロックのCDを聴きながら練習に明け暮れ中学時代には大人も感心するレベルにまで達していた。
その後、高校で同じクラスになった敏広と音楽的な趣味で意気投合。
当時のロック・シーンはグランジ全盛であったが80年代のロックを聴いて育った賢治達は、それには全く馴染めず
校内でもマイノリティであったが当人達はそれが幸いし理想のメンバーと出会う事が出来た。
始めは賢治と敏広のツイン・リードの予定であったが、やはり高校でもベースとドラムが見付からず、また賢治のギターの腕前に脱帽した敏広がベース転向を決意。
ギターの基礎がしっかりしていたので敏広のベースは瞬く間に形になっていった。
ただ問題はドラムであった。
一人、自分がやりたいと売り込んでくるクラスメイトが居たがこれが全く使い物にならないヘタクソで、しかし何とかバンドを形にしたいと焦っていた敏広達はやむなく、そのドラムの加入を許可。
こうして敏広、賢治、裕司の最初のバンドが結成された。
最初のバンド名は『Mr.ゴーン』
当時、敏広達が好んで聴いていたMr.BIGの曲から取った物で、この頃のMr.ゴーンのレパートリーは洋楽ばかりであった。
周りの先輩、同輩バンドがグランジやパンク、或いはビジュアル系を目指す中Mr.ゴーンは70~80年代のロックを中心にコピーしていたので、この頃の敏広達は邦楽には感心が無く当然ながら矢沢永吉にも全く興味が無かった。
そう、あの日あの時までは。
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