ネット小説☆女達のトラベリン・バス☆090

「あの、私、好きな人、居ますんで………」
咄嗟に出た言葉であった。


職場である総合病院の受付で今日も麻理子は、ある患者さんからしつこく男を売り込まれていた。


麻理子は結構モテる。
優しい顔立ちにスキだらけな雰囲気であるが故に外来の若い男の患者からしょっちゅうナンパされるが、この手の輩は守衛さんが強制的に排除してくれるので麻理子は助かっていた。


だが困るのは高齢の患者さんで麻理子は非常に優しいので、お年寄りからも人気があり毎度の様に「是非、息子の嫁に!」「孫の嫁に!」と言い寄られ守衛さんも流石にこれを排除する事は出来ずにいた。

以前は彼氏が居るのを理由に断る事も出来たが最近、別れたのがバレてしまい患者さんの麻理子争奪戦が再発してしまったのだ。


「大変ねぇ」と上司の中年女性。嫌味では無く本心で麻理子を気遣っている。
「すみません」
「貴女のせいじゃないわ」
「でも、これじゃ業務に支障が……」
「確かにそうだけど今は嵐の時と思えばいいじゃない。所で~」
「はい?」
「好きな人って何方?」
「私も気になるぅ!」
同僚も会話に混ざってくる。
「そ、それは………」
言葉に詰まる。
「まさかこの間の男だったりしてぇ」
「ちょ、ちょっと止めてよ!」
少し本気で怒る麻理子。
「冗談にしてはタチが悪いわね」と上司もその同僚を嗜める。


この間の男とは麻理子の小、中学校の同級生の事であった。
今年の夏の始めに突然その男の母親が息子と揃って麻理子の自宅にやってきた。
何処で知ったのか麻理子が彼氏と別れたのを機にウチの子と付き合って欲しいと言い出したのだ。
余りにも唐突で非常識な申し出に麻理子と母、香澄は開いた口が塞がらないでいたが「何も結婚を前提にとゆう事では無くお休みの日には一緒に映画を観たり食事に行ったりして欲しい」と当然の権利の様に要求してくるその母親。
因みに麻理子はその男の存在は知っていたが小、中の9年間で一緒のクラスになる事も増してや会話すらした事も無かった。
それを理由に香澄が丁重にお断りすると母親は二人に罵詈雑言を浴びせ帰っていった。


しかも翌日から、その男が麻理子にストーカー行為をし始め毎日の様に職場にまで現れだしたのだ。
幸い職場のスタッフに麻理子の親衛隊とも言えるお年寄りの患者さん、また親友の遥子のお陰で物理的にそのストーカーの脅威を取り除く事が出来たが、どうもこの事件が原因で麻理子がフリーになった事が公けになった様である。


「方便?」と上司。
「そ、そうです!」
「なぁんだ、つまんないの~」
上司と同僚はそれ以上言及しなかった。


ただ麻理子は複雑な心境であった。方便と言っても丸っきり嘘とゆう訳でも無い様な気がしたからだ。
それは今朝観た夢。
それまでは何故か例の『忘れたい記憶』ばかり観続けていたのだが今朝の夢は全く違う物であった。
暗闇の中、麻理子は泣いていた。
理由は判らない。ただ言いようの無い悲しさを感じている事は確かであった。
だがその時、何処からともなくピアノの調べが聴こえてきた。
自然と涙が止まり顔を上げる麻理子。
麻理子の居た場所、そこは武道館の中であった。
2階スタンド席からステージを見下ろすと、そこにはグランドピアノを弾きながら口笛を吹くビリー・ジョエルの姿が。
それは麻理子が高校の頃に親友の遥子と初めて行ったコンサート。
ふと隣に居る遥子の方に顔を向ける。だがそこに居たのは遥子ではなかった。
「楓叔母さん!!」
楓は麻理子に優しく微笑みステージの方を指差す。
導かれる様にステージに視線を移す麻理子。
するとステージにはビリーでは無く矢沢永吉の姿が見えた。
突然、永ちゃんコールの大合唱が麻理子の周辺で始まる。
反射的に辺りを見回す麻理子。
既に楓の姿は無く廻りでは遥子や眞由美。そして昨年末から今年にかけて出逢った仲間達が大いに盛り上がっていた。
一人一人と視線が合う。皆、麻理子に優しく微笑んでくれる。
麻理子も一緒になって永ちゃんコールを始めステージを観る。
しかし、その時ステージで歌っているのは矢沢永吉では無かった。
「!」
ここで目が覚めた。
身体を起こし、まだ夢と現実の区別が曖昧な頭の中を整理しようと試みる。


「………裕司君?」


確証は持てないが、あの時ステージ上に観えた男の姿は裕司に思えた。
そして、その日以来、麻理子は過去の記憶に悩まされる事は無くなった。

つづく

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