山本麻理子は1978年4月19日に東京の調布市にて同市役所の職員である孝之と元職員で現在は専業主婦の香澄の間に生まれる。
一人娘という事もあって大事に育てられたが門限等は厳しく塾や習い事は帰りが遅くなる事を理由に一切させてもらえずにいた。
麻理子もあまり自己主張をしない大人しい性格だった為に親の言う事を素直に聞く良い子と学校や近所でも評判であった。
中学生になってもそれは変らず部活動も禁止。
母、香澄はもう少し麻理子を自由にさせてあげたいと思っていたのだが麻理子が何も不満を漏らさないのを理由に孝之は自身の教育方針を変えようとはしなかった。
だが高校の入学式を終えたその日に麻理子は、せめてこれからは部活くらいはやらせて欲しいとお願いしたものの敢無く却下。
この時ばかりは麻理子も黙ってはいられなかった。
中学生だとゆうのに夕方5時とゆう厳しい門限のせいで友達と遊んだり部活が出来なかった為に同級生とコミュニケーションが取れずに学校で疎外感を感じていた事。
素直に言う事を聞いてたが実はずっと我慢してた事。
もう子供じゃないんだからもう少し自分のしたいようにさせて欲しいと訴えたが孝之は全く聞く耳を持たなかった。
この父の態度に麻理子は遂にキレた。
思いの丈をぶちまけるも父は単なる反抗期による物と解釈したのか、まともに取り合おうとはせず、ただ自分の言う事に従っていればいいと諭すだけだったが、この時の麻理子にそれは逆効果であった。
結局、その後は売り言葉に買い言葉の応酬となり初めてにして最大の父子喧嘩に発展。
そして麻理子は泣きながら家を飛び出してしまう。
どうせ夕飯の時間には戻ってくるだろうど孝之は高を括っていたが夜8時を過ぎても麻理子は戻って来なかった。
こうなると流石に心配になり家の周辺を探してみたが見つからず悪戯に時間が過ぎてゆく中、一人パニックに陥り今更ながら孝之は自分の教育方針に疑問を持ち始めたのだが、それに気付くのが遅かった様である。
孝之はこの日、初めて父親としての試練を味わう事になった。
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