YASHIMAの大成功はその後の文化祭の進行に大きな予定変更を招いてしまった。
2日目の日曜日、軽音楽部は2年生が音楽室で初日と同じプログラムでライヴ。3年生は後夜祭のメインステージに出演予定だったのだがYASHIMA以外のバンドがすべて当日欠席してしまい、顧問の判断で、この日の軽音部の活動はすべて中止となる。
ただ生徒会と実行委員の協議により急遽YASHIMAの後夜祭出演が決まり結論から言えば、こちらも大成功を収め、良くも悪くも、この年の鷺高文化祭はYASHIMA一色となった。
その後の軽音部は3年引退と同時に敏広達を除いた2年が全員、自主退部。
反対に1年生の中途入部希望者が殺到。
2年生部員がYASHIMAだけになってしまった為、敏広が部長、賢治と裕司が副部長、後はやる気のある1年生部員で新たな軽音楽部が組織されこの日を境に鷺高軽音部は今迄のモテたいだけのエセ・ミュージシャンの集まりでは無く本物志向の本格的なバンドを目指すとゆう意識改革に成功。
これを機に敏広達も放課後の部活動に積極的に参加しだし軽音部は鷺高内で最も活気有る部となった。
新体制となった軽音部の最初の活動は翌年の3年生を送る会。
1年生の選抜2バンドを従えてトリはYASHIMAが♪GET UP、♪馬鹿もほどほどに、♪BITCH(message from E)の3曲で纏めた。
会の終了後、敏広達が部室に居ると突然、前部長がやってきて敏広に握手を求めてきた。
戸惑いながらも応じると部長は敏広の手を握り締めたまま泣き出し「ありがとう」を連呼しだした。
やがて年度が替わり元々の顧問が他校に移動。
それに伴い加藤先生が軽音部顧問に就任し新入生歓迎会の直後にはYASHIMAのパフォーマンスを観て感動した1年の入部希望者がこれまた殺到。
最盛期には部員80人を超える文化部としては異例の大所帯となり、また部活運営に消極的だった前顧問と違い加藤先生が各方面に働きかけてくれたお陰で自治体主催のイベント等に積極的に参加し活動範囲が広がった事によって鷺高軽音部、特にYASHIMAは川崎市内では、かなり名の知れたバンドとなった。
その知名度が最も発揮されたのが敏広達3人の最後の文化祭。
当日はYASHIMA目当ての客がドッと押し寄せ例年の倍以上の来場客で溢れ、あまりの人の多さに体育館が使用不能に陥る事態になり急遽YASHIMAだけの特別プログラムが設けられ初日、後夜祭の両方で校庭メインステージを使用してのライヴが催される事になり、さながら鷺高文化祭はYASHIMAスペシャル・ライヴと名を変えた方がいい位のイベントと化してしまった。
そこでもYASHIMAは両日共に抜群のパフォーマンスを披露。
しかもオーディエンスの中にはYASHIMAの噂を聞いたバリバリなYAZAWAファンまで駆けつけ高校の文化祭にしては異様な雰囲気になってしまったが逆にそれが前年以上の盛り上がりを見せライヴ自体はこの年も大成功を収めた。
実は、このバリバリYAZAWAファンの中に『情事』こと真純が居たのだった。
両日参戦の真純は2日目のライヴ終了直後にメインステージ楽屋にまで訪れYASHIMAを絶賛。
「去年も観させて貰ったけどアンタ達、更にパワー・アップしてるね!若いのにやるじゃん!!」
「あ、ありがとうございます!」
恐縮する3人。この頃の真純は、まだ高校生だった敏広達から見ると何だか怖い人に思えた。
また後になって判ったのだが前年のライヴの際にYASHIMAコールをやって盛り上げてくれた張本人が真純であった。
「名刺渡しておくから、いつでも連絡頂戴。それじゃこれからも頑張って!」
まだそれほど普及してなかったインターネットを既に始めていたので、そのハンドルネームの入った名刺を3人に渡して帰っていった。
これが敏広達が初めて貰った『YAZAWAな名刺』であった。
因みに零れ話で、YAZAWAファン以外のオーディエンスの中には前年の1年部員の様にYASHIMAのレパートリーを3人のオリジナル曲だと勘違いしてる者も意外に多く居た。
そして、いよいよプロを目指すのか、と廻りが色めき立って勝手に盛り上がり出す最中、敏広達は軽音部引退と同時にYASHIMAの解散を表明。
これには加藤先生や後輩部員は勿論、鷺高の全生徒が驚愕した。
敏広は表向きには大学受験に専念する為と廻りに言っていたのだが本当の理由は裕司の父が急死した事が原因であった。
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