「クッソーッ!俺とした事が何で今頃気付くんだよ!」
武道館2階席、西側の中間辺りの席で敏広は地団駄を踏んでいた。
「どしたよ?」と賢治。
「神崎さんと席、変わって貰ってればなぁ!今頃は~」
「そんなこったろうと思ったぜ」
以来、遥子とツーショットでの参戦が敏広の悲願となるのだが未だにそれは達成されていない。
その遥子と神崎雄一郎は1階席南東の5列目とゆう結構良い席に居た。
「すみません。こんな事になってしまって」
「イヤイヤ!こちらこそこんなジジィのお供なんかして貰って申し訳ない」
「そんな!とんでもないです!」
この日、雄一郎は長年連れ添った連れ合いと参戦予定だったのだが、その連れ合いが当日になって気分が悪いと言い出した為に参戦自体を断念しようと思っていた。所が
「私は平気だから行ってらっしゃいと送り出してくれてねぇ。ウチのには悪いが言う通りにさせて貰った」
笑う雄一郎。女の立場からすれば酷い様にも思えるが何処か憎めない。
「あっ、そうそう!」
思い出したかの様に雄一郎は財布を取り出し、後に川崎Open Your Heartにて麻理子に渡す物と同じ名刺を遥子に手渡した。
「神崎雄一郎です」
丁寧に受け取る。遥子もバッグから会社の名刺を取り出し同じ様に渡す。
「槙村遥子と申します」
「おぉ!証券会社にお勤めなんだ」
「はい」
「ウチのは専業主婦だが株とかそっち方面に明るくてねぇ。御陰で今は悠々自適な生活をさせて貰ってるよ」
子供の様に笑う。人柄であろうか?遥子はこの何処か少年の様な雰囲気を醸し出している初老の男に好感を持った。
「あの、神崎さんはファンになって長いんですか?」
「いやいや!ワシなんてまだまだ新参者だよ。元はと言えばさっきまで一緒に居た裕司のお陰なんだ」
雄一郎の勤続最後の年に裕司が今迄のお礼という事でコンサートに誘ったのが、この時の2年前。例の『あり爆』
奇しくも遥子が偶々テレビで観た矢沢永吉のライヴであった。
「コンサート、ましてやロックなんて初めてだったんだが凄い!と心の底から思ってねぇ。以来、裕司の仲間達とも仲良くさせてもらってるんだよ」
雄一郎の笑顔は何とも魅力的であった。癒されるというか嫌な事を忘れさせてくれるというか。遥子はこの時、自然と幼少時代の麻理子の笑顔を思い出した。
やがて開演時間。遂に遥子がYAZAWAの洗礼を受ける時が来た。
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