遥子の最初の就職先は日本橋兜町に有る証券会社の総務課。
当時の課長が宮間達郎であった。
30代前半で既婚。真面目で優秀。同期の社員の中でも出世頭で上役からの信頼、部下からの人望も厚く正に理想的な上司であった。
「君はオーウェルを読んでいるのか!?」
有る日の会社による飲みにケーションにて達郎に驚かれる。
「はい。その1冊だけですけど」
「それだけでも驚きだよ!でも何故『1984年』を?」
「デヴィッド・ボウイのCDで…」
「『DIAMOND DOGS』かい?」
「そうです!ご存知なんですか?」
「これは奇遇だ!僕もそれでオーウェルを読む様になったんだよ!」
思わぬ共通点に盛り上がる達郎と遥子。また、お互いがロック好きだという事実に更に親近感が湧いてくる。
「君は何だってロックを聴く様になったんだ?」
「高校の親友の影響です」
遥子は親友、麻理子の話、大学時代はライヴ・ハウスやロック・バーでアルバイトをしながら様々なロックに触れた事等を話す。
「ビリーは僕も一時期よく聴いたよ。その親友さんは良い趣味の持ち主だね!」
この日を堺に達郎と遥子はランチ・タイムにはロック談義で親睦を深め、またこれが仕事にも良い影響を与え理想的な上司と部下の関係を築く事が出来た。
「槙村君、君はちゃんと考えて仕事をしているね」
「はい」
「最近の若い奴等は男女問わず言われた事だけやっていればいいと思ってる。だが君は与えられた仕事がどうゆう事なのか、ちゃんと自分の頭で考えて行動をしている。責任感が無ければ君の様には働けないよ」
「ありがとうございます」
「人事部も素晴らしい人材を採用してくれた。君の様な部下を持てた事を感謝しなくては」
「光栄です。でも私は宮間課長を御手本に仕事をしているだけです」
「これは僕の方こそ光栄だな」と笑う。
やがて二人のコミュニケーションはアフター・ファイブにまで及び週末はロックに限らず仕事や互いのプライヴェートの事にまで話題が至り終電間際まで時間を忘れて語り合う事もあった。
「いいんですか?こんなに遅くまで」
「なぁに。電車が無ければタクシーで帰るさ」
「そうじゃなくて奥様が…」
「女房の事はいいだろ。今は家庭の事は忘れたいんだ」
「まぁ」
「槙村君、君は部下としても女としても非常に優秀な人物だ。これからも僕のサポートを宜しく頼むよ」
「頑張ります」
「しかし残念だ」
「はい?」
「もっと早くに君と出会えていたら僕の人生も違った物になっていたかもと思ってね」
「大袈裟ですよ」
「そんな事は無い。僕は君に出会えた事を今は人事部では無く神に感謝している」
「大分、酔いが廻った様ですね。今日はもう御開きにした方が…」
「酔ってるよ。だが酒ではなく君にね」
「課長、部下である私を口説いてどうするおつもりですか?」
「君の様な才女を簡単に口説けるなんて思っていないさ。だがチャレンジするだけの価値が君には有る」
「お上手ですね」
「君こそ、かわし方を心得てるじゃないか。学生時代は相当モテた事だろう」
「そんな事ありません」
「君は本当にいい女だ。上司としても男としても益々惚れたよ」
「奥様に言い付けますよ」
「構わんよ。君を口説き落とせるのなら仕事も家庭も何もかも捨ててやるさ」
「まぁ!何人の女にそう言ってきたのかしら?」
「女房以来、君が二人目だよ」
「課長、課長が出世頭な理由が判りましたわ」
「どうゆう意味だい?そりゃ」
始めの頃はこんなやり取りを楽しむ分別の有る大人のコミュニケーションに留まっていた。
だがそれが大人であるが故の過ちへと変わるのにそれ程時間は必要で無かった。
6月最後の金曜日
「君は男に何を求める?」
「何故その様な事を?」
「君の様な女が経済力やステイタス、ましてや外見等を求める筈が無いと思ってね」
「はぁ」
「どんな男が君のお眼鏡に適うのか。これは僕だけでは無く若い男子社員も興味津々の様だよ」
「私にはどうでもいい事ですね」
「それで?何を求める?」
「………誠実さでしょうか」
「模範的な答えだな。本当にそれだけかい?」
「と言いますと?」
「何と言うか本音を隠してる様に思えてならない」
「何を仰りたいんです?」
「これでも僕はそれなりに人生経験を積んでいる。君は良い女だが一つだけ知らない事がある様だ。体験してない事とでも言おうか」
「それはそうですよ。まだ課長程、歳を重ねてませんから。これから酸いも甘いも体験して…」
「その手伝いをしたいと言ったら怒るかい?」
「えっ?」
見詰める達郎。
「君の人生経験に一役買いたいと言ったら殴るかい?」
殴る所か他の男であったなら一笑に付していたであろう。だがこの時、遥子は達郎に自分の心の奥底を見透かされてる様な気がした。
そして二人は遂に一線を超えてしまう。
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