ネット小説☆女達のトラベリン・バス☆194

澄子が結婚すると聞いたその日は謙の人生の中で最もショックな日となった。

自分が澄子を幸せにする。それが出来るのは自分しか居ないと本気で思っていた謙にとって澄子の縁談は悪い夢でも観ているのだと思う以外に受け入れ様が無かった。

しかも相手は自分とは正反対のブルーカラーである工員。

「何故だ!何故、彼女は僕よりあんな男を!」

職業差別をするつもりは無いが謙にとってはどう考えても神崎雄一郎という男は澄子にはそれこそ不釣合いに思えてならなかった。

その受け入れ難い現実から酒で逃げる謙。

箱根の老舗旅館の次男坊に生まれ子供の頃から勉強、スポーツ、何をやらせても直ぐに身に付けてしまい親戚、ご近所からも神童と呼ばれエリート街道を歩んでいた自分が生まれて初めて味わう挫折感。

謙にも自分がエリートだという自覚が有った。勿論それは根拠の無い自惚れでは無く最大限の努力に裏打ちされた物だ。

その為、進学も仕事も順風満帆。女性にも不自由した事は無く、その都度、誠意を以てお付き合いもした。

だが、何故か今迄の恋愛にこれ程までの感情を抱いた事は無く反対に近年は他の女と一緒に居ても頭に浮かぶのは澄子の事ばかりで気が付かない内に澄子無しの人生なんて考えられない程にその想いは募っていた。

やがて、その挫折感は澄子が選んだ相手、雄一郎への嫉妬へと変わり譲はこの時程、他人を憎んだ事は無かった。

そして同時に澄子に対して愛憎入り混じった感情まで湧き上がり《いっそ二人を殺して自分も死のうか》等と狂った考えまで頭に浮かんだ事もあった。

自暴自棄のまま何件もの店をハシゴしては酒に溺れ我に返ると謙は自宅マンションの寝室で見知らぬ女とベッドを共にしていた。

「おはよっ」
「あ………」
「貴方って激しいのね。昨夜は壊れちゃいそうだったわ。」

そう言ってはキスをしてくる女。

「でも久しぶりに私も本気で燃えちゃったけど」

何のリアクションも出来ない。身体が思う様に動かない。

「お風呂借りるわね」

風呂場へ向かう女を他所に鈍い頭痛に苛まれながら時計を見る。時刻は既に昼の11時であった。

「あ、そうそう!電話が何度もかかってきてたわよ」風呂場の扉が閉まる。

社会人に成ってから初めての寝坊。同時に初の無断欠勤となるこの日に謙は生まれて初めて、ゆきずりの女と関係を持った。

無気力にベッドに横たわり、暫くすると完璧に身支度を整えた先程の女が視界に入ってくる。

「それじゃまた誘ってね」朦朧としている謙の頬にキスをする派手な女。

去り際に謙の財布から現金を数枚抜きとって行く。

女はプロであった。因みに定額以上の金を抜き取らない良心的な女でもあった。

「あぁ、それから」

女が振り返る。

「私の名前は『アズサ』だから」

無論、偽名である。

「今度、私を抱く時は『スミコ』って呼ばないでね♡」

ウィンクして部屋から出て行く。

アズサの残した言葉が謙の頭の中でリフレインさせる。

『スミコ』って呼ばないでね 『スミコ』って呼ばないで 『スミコ』 澄子 澄……

自然と昨晩の情事の光景が記憶に蘇る。

澄子を想い先程のアズサを澄子の身代わりに激しく犯した昨夜の光景が。

途端に羞恥心と自己嫌悪が込み上げ同時に激しい吐き気を催した。

飛び起き口を抑えながらトイレへと駆け込む。

だが間に合わずトイレのドアを開けた途端にその場で胃の中に有った物をぶちまけてしまった。

激しく咳き込み跪く謙。そのまま構わず吐き出し続け、そして汚れた床の上に倒れこむ。

独特の酸味と嘔吐物による悪臭を感じつつ今度は洗面所へと這う様に向かう。

洗面台を掴んで何とか立ち上がり蛇口を捻って水を出す。

震える両手で水を掬い一口また一口飲むと再び咳き込み洗面台に蹲る。

「ハァ…ハァ…ハァ……」

呼吸を整え何とか姿勢を正して右手の甲で口を拭う。

ふと鏡に映る自分と目が合った。

暫し鏡の中の男を凝視する謙。

ボサボサの頭髪。クマの出来た目元。鼻水が垂れ見苦しい無精髭。そして首から下には無数のキスマークに自らの嘔吐物に塗れた身体。

謙はじっと鏡を睨み付ける。そして

「フ…フ…フハハハハハハハッ!」

謙は自身を見詰めたまま大声で笑い出した。

《何が神童だ。何がエリートだ。何が俊英だ。こんな……こんな惨めで見窄らしい男…………彼女が選ぶ筈無いではないか!》

謙は一頻り笑うとそのまま泣き崩れた。

つづく

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